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2005年 「生命・きずなの日」記念祭

-Bridge of Life Day-あなたを忘れない! →2006年 サンクスレターへ



天国にいるドナーの方へ
 
42歳で天国へ旅立たれ、もう23年が過ぎ去りました。
私はあなたの歳をとっくに越え、56歳になりました。
あなたは私の中で65歳になりました。
あなたは今もせっせと老廃物を対外へ排出してくれています。
そのお蔭で私はいつも元気で幸せです。
この幸せの向こうにはあなたの愛するご家族の深い悲しみがあることを
私は忘れません。
ほんとにあなたのお蔭、あなたのやさしい愛のお蔭
心から感謝しています。ありがとう!  安らかにお眠り下さい。

献腎レシピエント 大畑益子



「あなたから大切な命をいただいて」 

あなたから大切な命をいただいて6年・・・
透析から離脱して6年・・・
色んなことを勉強して、色んな所に出かけたり
おいしいものをお腹一杯食べたり飲んだり
そして・・・多くの友人と出会ったりと・・・
拘束のない自由な時間を思いっきり楽しんでいます。
新しい命をいただいて心から感謝しています。
これからも・・・ずっとずっと大切に生きていきたい。
ありがとうございました



「命・きずなの日」 

今日この会場、この壇上でお話をすることが出来ることに
緊張の中とても感謝しております。
透析している時にはこんなに元気になり、まさか移植の話をし、
ましてやドナーファミリーの皆様の前で話している自分の姿を想像すらできなかったからです。
自分の腎臓が悪いと知らされたのは、1980年、当時22歳の時でした。
保健所の健康診断で淡白尿が出ているのを指摘され、すぐに入院を進められました。
3ヶ月の入院生活はしたものの、腎臓の機能は良くなるわけはなく退院してしまいました。
当時、学校を卒業したばかりで仕事にも、遊びにも一生懸命だった自分は、
体の事をあまり気にすることも無く不摂生な生活を送っていました。
入院した時にこのままの状態だと透析をしなければならなくなると言われたとおりに
1990年7月に透析導入になってしまいました。
腎臓が悪いと診断されてから10年、本当に自分が透析をしなければならない体になり、
これからの人生はどうなってしまうのか不安でたまりませんでした。
週3回で1回4〜5時間の透析、この透析を受けなければ自分の命は消えてしまう
こんなことを考えながらの生活。
透析の生活では食事制限はもちろん、旅行に行くにも一苦労
そして一番つらい水分制限があり、毎日がそのことが頭から離れることはありませんでした。
そんなつらい透析生活も7年目を迎えた1997年12月25日クリスマスの晩に
東邦医大から『あなたに合う腎臓の提供がありましたのですぐに病院に来て下さい』と
電話連絡がありました。
透析導入時に献腎登録をした記憶はありましたが、まさか自分がいただけるとは、
夢にも思っていませんでしたし、訳もわからず病院に行きました。
病院に到着し、先生方の説明を聞いているうちに、
善意の方からの命の贈り物をいただけると実感しました。
手術も無事成功ししばらくたったある日、看護婦さんから
「クリスマスの日に本当にすばらしい贈り物をもらえたね!これからその贈り物を大切にそして一緒に、
第二の新しい人生を送ってくださいね!」と言われたのを今でも覚えています。
移植手術から3年ほどたった2001年主治医の先生より日本で初めての世界移植者スポーツ大会が
神戸で開催される事を聞かされ、単身参加することを決めました。
移植してからずっとこの自分に何か出来ることはないかと考えていました。
この大会に参加することで、こんなに元気になった姿をこの自分に腎臓をくださった方の
ご家族、ドナーファミリーの方に見ていただけたらとの思いでした。
開会式のセレモニーで、ドナーファミリーの方々が入場された時には人目も気にせず、
泣いている自分がいました。今自分が元気でいられるのは、
命の贈り物をしてくださった方とそのご家族の理解のおかげにほかなりません。
心の中で本当にありがとう御座います!ありがとう御座います!と
何度も何度も叫んでいました。
自分の出場したボウリングには何とか優勝することが出来、
思わず腎臓のある位置を手で押さえて小さくガッツポーズをしてしまいました。
神戸大会の時は単身参加しましたが、それ以来移植をした仲間とも
友達になることができ、参加して本当に良かったなと思っています。
時間が許せるかぎり、移植者スポーツ大会には一緒に参加したいと思っています。
もちろん今年のカナダ大会も参加し、僕の一番の親友である
いただいた腎臓と優勝をめざして頑張ってきます。
それから僕は腎臓移植を受けてから、今日まで毎日必ずやっていることがあります。
それは寝る前にいただいた腎臓に手のひらを当てて
『今日は一日ありがとう!明日も宜しく!』と声をかけて寝ることです。
これからもいただいた腎臓と共にすばらしい第二の人生を送りたいと思っています。


「ありがとう」

私は腎臓を提供いただいて、17年目を迎えております。腎臓機能もよい状態で働いてくれています。
只、年を重ねてきておりますので、体の彼方此方から黄信号があります。
体をゆっくり鍛えながら、バランスのよい食事と目的を持った行動で社会に「生きる」ことが、
ドナーの方とそのご家族のお気持ちにお応えしていきたいと思っております。
私の場合は腎臓病を患って三十数年になります。
透析生活に入った当初は移植について、あまり考えたことはなかったのですが、
職場の先輩から登録について伺いました。
透析と仕事の生活が続いたのですが、仕事中に連絡があり、腎臓移植を享けました。
術後は少し拒絶反応がありましたが、ほぼ順調に推移し、小水も早く出ました。
本当に体中が蘇りました。
この移植は、亡くなった方、そのご家族がおられ、悲しみの中から
「生命(いのち)」の贈りものをいただいきました。
ベッドの上で何度も両手を合わせ、感謝の気持ちを込めて、ご冥福をお祈りしました。
見ず知らずの方から真心の贈りものをいただき、この手術から深い結び付きができました。
初めてドナーのご家族にお会いしたのは、近畿での慰霊祭でした。
話す言葉が「挨拶」の他に見つかりませんでした。
近況をお伺いしたり、提供後のお話を伺ったりするだけで距離を感じていましたが、
茶話会の閉幕する時に年配のお母さんから「元気で生(い)てくれて、ありがとう」の言葉が忘れられません。
本当に身近にご家族を感じるようになりました。
これからも心と心のふれあいを通して、親交を深めさせていただき、
「生命(いのち)・きづなの日」が思いやりの象徴として、
社会に根付くために小さな力ですが、尽力できればよいと思っております。

大阪  下野 浩


「ドナー様へ」

私は助けられた
今の幸せは、あなたの優しさで
深い海の底にいた自分を・・・
私は愛する人と出会い、そして結婚
子供にまで、出会えた。
言葉では ありがとうとしか言えないけれど
もっともっと、もっと感謝しているんだ 本当に

玉熊 直志



「あなたとあなたのご家族へ」

未だ知らぬあなた(ドナー)から尊い“いのちの贈りもの”をいただいて
早や20年8ヶ月が過ぎました。
私は、毎日、明るく希望に満ちた生活をおくっております。
家族に笑い声が戻り、精一杯、働くこと、スポーツを楽しむことができるようになりました。
そのすべはありませんが、あなたのご家族にお会いして、
こころからの謝意を申し上げたいといつも、いつも願っております。
4年前、神戸市で開催された『世界移植者スポーツ大会』で、
私は初めて多くのドナーファミリーの方たちとお話しする機会があり、
私たちの気持ちを聞いていただきました。その方たちは
『わたしたちのドナーへの思いを忘れずに、あなたたちに贈られた
“いのち”をいとおしく思って、末永く大切にしてくださいね』
と励まして下さいました。
その大きな心に触れ、私はドナーの方から “いのち”だけでなく、“やさしい心”も
受け継いでいかなくてはとその言葉を胸に刻みました。
あなたからいただいた “いのちの贈りもの” を、
私は大切に!大切にして一生懸命生きてまいります。
ほんとうに有難うございました。

川 瀬 喬(‘84.8腎臓移植)



「いのちの贈りもの」は“物”か

今年も記念祭「生命・きずなの日」がやって来た。
5月は“いのち”の大切さや尊さについて考える月。
そしてまた生き方についても初心に帰り考える月となった。
東京では「生命・きずなの日」が名古屋では「臓器提供者慰霊祭」が行われる。
「いのちの贈りもの」は“物”か!?
レシピエントの誰もがノーと答えると確信するが世間ではこの常識が通らないようである。
JDFCつうしん第20号に「日本のある専門家が臓器は物と思いなさい」と述べられている。
専門家の発言だけに関係者に与える影響は大きく驚きを禁じ得ない。
レシピエントと世間の間には大きな溝が感じられるがこの溝は誰が作って来たのか。
「生命・きずなの日」にJDFC間澤洋一会長が「臓器にも“いのち”があるんだよ」と言われた。
腑に落ちた発言だった。後日、この言葉を口にしたとき涙がこぼれ落ちたことが記憶に新しい。
臓器の提供は人への思いやりの究極を形に表した結果であると思うが、
臓器移植は「臓器の提供があって初めて成り立つ」と言いながら、
提供側に光を当てていないのが日本の移植医療の現状ではないか。
臓器移植法の改正も大事なことと受け止めているが、ルールを変えただけで
臓器提供が増えるとは到底思えない。
臓器を“物”という認識ではなく臓器にも“いのち”があるという心の部分を世間が
理解したとき(してもらえたとき)、初めて日本の移植医療は格段の発展を
遂げられるのではないかと考えている。
そのために当事者として今一歩踏み込んだ何かをやらなければと思う今日この頃であるが
力及ばずというのが現実でもある。
終わりに家族を代表して臓器提供を果たされたドナー並びにドナーファミリーの皆さまに
心よりの敬意と感謝を申し上げます。

noboru yamamto


「ドナー・ファミリー様」

私は、平成9年4月に、貴方様のご家族により、大切な腎臓をいただきまして、
兵庫県内の病院で、移植していただいた者でございます。
私は、50歳代の女性です。本当に大切な腎臓を、有難うございました。
お陰さまで、今は、透析もしなくて元気に、毎日を過ごさせていただいて、居ります。
平成13年8月に、第13回世界移植者スポーツ大会にも、参加させていただき、
水泳で、銀メダルをいただけるぐらい、元気にならせていただきました。
そもそも、私が、腎臓病になったきっかけは、「妊娠中毒症」にかかったからです。
透析に入るまでの13年間ずーと苦しんでまいりました。
透析に入って、5年8ヶ月で、幸せにも、貴方様のご家族により、お助けいただきました。
毎日、お忘れした事は、ございません。
スポーツ大会で、たくさんのドナー・ファミリーの皆様を、拝見した時は、本当に涙が止まりませんでした。
感謝の気持ちで一杯でございます。もっと早く感謝の気持ちを、お伝えしなくてはいけませんのに、
遅くなりまして、本当に申し訳ございません。
先日、3年前に嫁ぎました娘と、初めての海外旅行に行ってまいりました。
おまけに、2歳の孫も一緒にいきました。
人生で、最初で最後かもしれません。本当に夢のようでした。
5月には、私の母と、松江に旅行をする予定にしています。
旅行なんかって、人事のように思っていました私にも、他の人と同じような事が出来るようになったのも、
ただただ、貴方様のご家族様のお陰です。
これからは、頂きました腎臓を、一日でも長く大切にお守りしていく事が、私の使命だと、思っています
頑張りますので、末永く見守って居てくださいませ。
本当に、本当に、有難うございました。末尾になり申し訳ありませんが、
ご家族様のご冥福を、心から、お祈り申し上げます。



「ドナーご家族様」

お元気でおすごしでしょうか。
今年、移植から10年を迎えます。
元気で日々を送らせていただいております。
お名前もお顔も存じませんが、
ふと、どこかですれ違っていやしないだろうかとか、
列車の中でとなりどうしになっているのではないかと
思ったりする事もあります。
お元気でお幸せであられますようにと
感謝とともに、祈っております。
心をありがとう
支えてくださってありがとう
今年も私の大切な日に
あの日の見たアスターの花をかざります。

(山口県 Y・K)



「ドナーのご家族へ 心よりありがとう」

腎臓移植をしてから4年が経とうとしています。
毎年初夏の日差しを感じる頃、幸せの涙が溢れます。
子供の頃から腎臓が悪く、入退院を繰り返して腎不全に至るまで30年。 学生の頃の体育の時間はいつも見学。親に心配ばかりかけていました。
それが透析に至り、ある日突然の移植。
移植から4年間は特にトラブルはなく、元気でいられる幸せが、
ドナーのご家族にとっては、悲しみの4年間だったことでしょう。
“感謝”という言葉でかたずけられるものではありません。
ドナーとそのご家族のあたたかいご意思を無駄にすることのないように、
力強く生きて行きたいと思います。

40歳代 女性


「ドナーへのメッセージ」

私には2つの世界がある。
炎天下汗水垂らして日銭を稼ぐ土方稼業や地元のお付き合いに明け暮れる日常の生活。
もうひとつは移植にまつわる行事や仲間とのコミュニケーション。
そのどちらもが移植という事変、私にとっての人間革命によってもたらされた大事な大事な宝物です。
でも決して独り占めはしません。
多くのドナーの方々に直接にはご恩返しできませんが、
私なりにあなたたちの優しさを見習って生きて行きたいと思います。
見守ってくださいね。

 東海支部・原田

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