第14回世界移植者スポーツ大会 フランス・ナンシー市
2003年7月20日(日)〜2003年7月26日(土)
世界53の国から移植者及び家族を含め1500人(主催者発表)が参加。
日本チームの参加者: 心臓移植者1名、肝臓移植者5名、肺移植者1名、膵腎同時移植1名、 腎臓移植23名、
          骨髄移植者1名、家族16名、随行医1名、添乗員1名
          合計 移植者32名 総数50名(神戸大会を除き過去最多)
メダリストの方々
今回の日本チームは、非公式競技の17才以下を除き、神戸大会を上回る12個の金メダル を獲得という素晴らしいものだった。日本チームの選手の数が神戸大会の5分の1であること を考えると、今回の成績は、初参加以来最高の成績。日常的にトレーニングをしている選手の 参加も多くなり、それが好成績を上げる要因
 ただ1997年のシドニー大会から随行医として、日本チームのお世話をいただいています 東邦大学医学部の相川厚先生が、これほどお忙しかった大会もなかった。確かに日本からの長 旅の後、シャルルドゴール空港から5時間以上もかけてナンシーへ移動したこと、開会式や競 技などの行事が夜に行われるなど、かなりハードスケジュールだったこともあるが、病院で診 察を受けるなど、体調を崩した選手が少なくなかったことは、今後に向け大きな反省材料。
10日間の長期休暇を取らなければならないこと、費用が高額の35万円ほどかかること、 体調も良好であることなど、参加するには高いハードルがあるが、この大会は、移植者にとっ て本当に素晴らしい。次回は、もっと多くの移植者が参加し、生きていることの素晴らしさを みんなと一緒に実感して欲しい。


第14回世界移植者スポーツ大会ドキュメンタリー(担当:大久保)

7月19日(土)
8:45 成田(国際空港第1ターミナル、特別会議室。テレビ局3社がすでに取材体制を 整え待機。半数近くは、初対面。今回は、海外での大会に初参加の人が3分の2を占める。 全員に出来たての胸に日の丸の白いポロシャツを配る。これはノバルティスファーマ社の援助 により、参加者全員に無償で提供。
9:00 NPO日本移植者スポーツ協会会長小野清子参議院議員とIOC理事猪谷千春様から の応援メッセージを披露。4大会連続の随行医師東邦大学医学部腎臓学教室の相川厚先生から ご挨拶をいただく。
選手を代表して玉熊直志さんが決意表明し、参加選手全員でナンシーでの健闘を誓い「雄叫び」 を挙げる。一方、関空からの出発組も元気に一路パリへ。
同日、現地時間の午後5時ほぼ同時にシャルルドゴール空港第2ターミナルに到着。 その後バスに乗り継ぎ、ナンシーのホテルに着いたのは夜中の1時近く。もうみんな疲れきっ ていた。
7月20日(日)
午前中休養。午後から元気に市内見学。夕刻から開会式。集合が5時。それから待たされる こと4時間。夜9時を廻ってようやく選手の出番。ナンシーの中心部、世界遺産に登録されて いるスタニスラス広場が会場。もう日本チームは待ちきれなかったように、めちゃくちゃな 盛り上がり。あの陽気なラテン系の各国も真っ青なくらい観客に大受け。若い人が多く今まで の日本チームの印象を180度変えた。
アトラクションの有名歌手のコンサートは、我々が待っている間に終了。おいおい主役は参加 選手じゃないの?てなことで、挨拶の後は、市庁舎に映像を投影する音楽映像ショー、これも 延々40分近く、もうみんな飽きていた。そこへ雨、我がチームも明日のことを考え、女性や 子供は先にご遠慮させてもらった。フィナーレは世界遺産から打ち上げる花火。日本じゃ 考えられない。ようやく雨も小降りとなった10時30分終了。ああ疲れた。

7月21日(月)

テニス競技。

朝から雨模様。ようやく午前10時過ぎに雨が上がり、プレー開始。日本チームは頑張ったが、 外国の方が一枚上。全員敗退。今回はテニスではメダルなし。確実にレベルアップしているの で、次回は楽しみ。
この日は、夜と言っても夏時間のため9時半ごろまで明るい。8時からミニマラソン。本部の ある公園を回るコース。私(大久保)ともう一人が出場。私は余り練習が出来ていないので 1キロ5分少々を目標とする。最初にちょっととばしすぎ。何とかイーブンペースに持ち込み、 26分台でフィニッシュ。上出来上出来。この日もスケジュール終了は、夜の9時を回っていた。
7月22日(火)

ボウリングとテニス。

ほとんどの日本人参加者は、ボウリング場へ。レーンコンディションは最低とのこと。 私たち素人には、まったく分からない。しかしこの日は、ジャパンデーとなった。女子ベテ ランで藤原さんが、男子アダルトで辻本さんが、男子スーパーシニアで野口さんがそれぞれ 金メダルを獲得。ダブルスでも藤原・大畑組、野口・辻本組が金メダル。菊池・井上組が 銅メダルを獲得し、翌日へ向け日本チームの意気は大いに上がった。
7月23日(水)

水泳競技。

日本チームのエース太田さん戸塚昌弘さん登場と。予想通り、太田さんは50mバタフライ、 100m自由形で金メダル。彼女は翌日の200m個人メドレーでもぶっちぎりで金メダルを獲得し 3冠達成。戸塚さんも50mバタフライで銅メダル獲得。その他この日は、二人の子供が大活躍。 7才の遠藤君が出場種目全て、完泳し金メダルを獲得。また12才の丸山君もバドミントンで 金メダルを獲得。今大会参加した子供は2人だったが、大活躍で、数多くのメダルを獲得。
7月24日(木)

卓球。

体育館も狭く、これで一日で終われるか?ところが急に11ポイント3ゲームマッチにルール 変更。それでもめげず日本選手は実力発揮。大畑さんは、ベテランクラスで貫録の金メダル。 若手も頑張り辻本君がアダルトで、健闘し常勝のスエーデン選手を追い込むものの惜しくも 銀メダルを獲得。
水泳でも骨髄移植者の生田君がアダルトクラス50m自由形で日本男子として初めて水泳競技で 金メダルを獲得。ゴルフでは佐伯さんがベテランの部で銅メダルを獲得。日本チームの勢いが 止まらない。
選手は、疲労がピーク。体調をこわす人も出て、随行医の相川先生は、連日大忙し。
7月25日(金)

陸上競技。

陸上競技場は、スタンドの収容人員も3000人程度。観客も少なく、参加者もあまり来ていない。 ちょっと寂しい光景。
1日目は、予選が行われ殆どの日本選手が決勝へ進む。けが人はなし。
7月26日(土)

最終日。陸上競技の決勝が行われた。

圧巻はボールスローシニアクラスに出場した玉熊さん。3種目(ボールスロー・走り幅跳び・ 走り高跳び)に掛け持ち出場しながら、力強いホームから他を圧する80m越えの投擲。彼の身体 能力のすごさと、日ごろのトレーニングに脱帽。また戸塚仁さんが、激戦の100mシニアクラス で久々にファイナルへ出場。
女子では、井上さんが走り高跳びシニアクラスで金メダル。女子のフィールド競技で初めての 金メダル。また田村さんもボールスローシニアクラスで銅メダル。田村さんは、今までボール スローに出場した時は必ずメダルを獲得。
この日も遠藤君、丸山君の二人の子供たちは大活躍。ボールスローや走り幅跳びでメダルを 獲得。本当に元気な子供たちだった。
いよいよ大会もフィナーレ。4×400mが終わり、閉会式。もう歌が始まっている。選手は フィールドで輪をつくり、踊りだす。いつもだとここでセレモニーだが、今回は、人の輪 (ニューライフサークル)が先。輪がどんどん大きくなり競技場全体に広がる。スラパック 会長のお掛け声に応え、全員が中心へ向け走り出す。2年後にカナダで、元気でね、また会え るね、きっとね、それぞれが抱きあい、握手し、2年後の再会を約束した。この時間ほどこの 大会に参加してよかったと思う瞬間はない。移植者にとってかけがえのない時間。参加者は セレモニー終了後も再び別れを惜しんだ。 
夕刻から、郊外の見本市会場でガラパーティー。みなトビッキリのおしゃれをして参加。 料理は、今まで裏切られ続けていたが、ガラだけはほぼ期待通り。これが最後とばかり、 交流やダンスなどにみな夢中。あっという間に、4時間近くが過ぎてしまう。子供いるし、 翌日も早朝の出発のため日本チームは早めに切り上げホテルへ。

7月25日(金)
早朝バスでシャルルドゴール空港経向けて出発。こうしてフランス・ナンシーでの夏の楽しい 1週間は終わった。
次回は、2005年7月16日から23日、カナダ東部のロンドン市で開かれる。ロンドン市は、 エリー湖に近く、ナイアガラの滝からも40Km程度のところにあり、とても美しい町。 今回よりは少し費用も安くなりそう。

皆さんご一緒にロンドン(イギリスではない)へ行きましょう。

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