日本移植者協議会ニュース
臓器移植法改正への道のり(2009/12/01)

2009年7月13日。 当日は、朝から雲の多い梅雨空でした。私は、朝一番の飛行機で東京へ向いました。当初は、15日に臓器移植法改正案の採決が行なわれると予想されていましたが、解散にからむ与野党のせめぎ合いにより、急遽13日の13時から参議院本会議で採決されることになりました。その日の午前中、臓器移植患者団体連絡会の仲間、と言いましても既に私を含め、見目さん、竹内さんのたった3人ですが、それと寺岡先生を初め日本移植学会の先生方数人がE案賛成者を除く、全議員へ最後の陳情を行いました。その後、移植学会の先生や賛成派の議員とともに、最後の票読みをしました。しかし衆議院と違い、A案採択の自信は、最後までありませんでした。

いよいよ採決。 参議院での採択は、衆議院と違い押しボタンであっけなく決まりました。まずAダッシュ案が圧倒的多数で否決されました。否決できるとは思っていましたが、気がつくと背中にじっとりと汗をかいていました。これで勝てると思いましたが、やはり結果が出るまでは、心臓の鼓動が早まります。続いてA案が採決されます。江田参議院議長の「これにて投票を終了します」この後の10秒くらいの間が、何とも長く感じられました。そして電光掲示板に賛成138、反対82が表示され、圧倒的多数での可決成立でした。まわりの人達と握手しながら、今まで感じたことがないうれしさがこみ上げてきました。頭の中では、色々なことが巡り、ああ長かったなと思いました。日本移植者協議会を設立した直後の1992年1月に脳死臨調の最終と心が出されました。そから臓器移植法整備に取り組んで、実に17年が過ぎてしまいました。不思議と落ち着いてはいましたが、泣かないでおこうと思っていたのにやはり涙が溢れてきました議事堂の外に出ると、始まる前は、曇っていた空が、青空で雲一つありません。この青い空、輝く太陽が、私たちを祝福しているようでした。あれほど真っ青で澄みきった青い空を東京で見たことはありません。思わず空に向かって、「やった」と叫んでいました。

運動は、18年前に始まった。 思うに本当に長い道のりでした。当協議会は、1991年10月に発足しました。そしてその3ヶ月後の翌年1992年1月22日、「臨時脳死及び臓器移植調査会」の最終答申が出されました。その答申には、「脳死を人の死とすることについて概ね社会的に受容され合意されている」として脳死を人の死とし、臓器移植の必要な人々を一人でも多く救済すべきこと。加えて臓器移植を円滑に実施のために必要な処置を講ずることとするものでした。私たちは、この答申に副った形での法制化を願い「臓器移植法の早期成立を要望する請願」の署名を集め、この年の10月に国会に提出し、翌年の1993年12月にも同様の国会請願署名を提出しました。漸く1994年4月になり「脳死及び臓器移植に関する各党協議会」でまとめられた臓器移植法案が衆議院に提出されました。この案は、「脳死を人の死」とし、本人意思が不明の時、家族の承諾で提供可能なとする案でした。当協議会では、それに合せて各国会議員へ「臓器移植法の早期成立を要望する」葉書送付運動や衆議院厚生委員や議員運営委員へ要望書を提出するなどの活動を行いました。

臓器移植関連患者6団体結成。 その年の11月、新たに臓器移植関連患者6団体が協力し国会議員との懇談会を開催し、「臓器移植の必要性と法案の早期成立」を要望しました。その後は、当協議会単独ではなく臓器移植関連患者6団体(拡大して9団体となり、臓器移植推進連絡会を経て2003年4月に患者団体のみで改組し現在臓器移植患者団体連絡会となる)として活動を続けましたが、その甲斐もなく、1996年4月衆議院の解散により廃案となってしまいました。廃案には、みな大きな挫折感を味わいましたが、すぐさまその年の5月に東京都千代田区にある灘尾ホールにおいて「私たちはもう待てません。一日も早い臓器移植法案の成立を」と題して決起大会を開催しました。この時は、平日の夜、それも雨模様にも関わらず200人を超える関係者が集まりました。1996年11月法案再提出を前に、患者団体への説明が朝食会として、今はない赤坂のキャピタル東急ホテルで行われました。再提出される案は、臓器提供の要件を「本人が書面により意思表示を行なっている時」に限定するものでした。私は、国会議員の先生方に向って「この案は、臓器移植禁止法であり、到底承服できない」と抗議しました。しかし私たちの力では、どうしようもないことで、この案を承諾するしかありませんでした。私は、この時、移植を待っている子どもたちの姿が何人も次々に浮かび、涙が止まらず、我を忘れテレビカメラに向って、泣きながら抗議していました。

現行法成立。 この案は、12月に見直し規定を3年に短縮し衆議院に提出され、翌年4月衆議院で可決し、参議院では、今回の改正で削除する、しないで大きな議論となりました「臓器提供の場合に限り脳死を人の死とする」ことと「脳死判定にも本人意思の書面による承諾が必要」との修正が行なわれ1997年6月16日に可決成立した。1999年2月に初めて脳死下の臓器提供による移植が行なわれました。しかし予想通り脳死下での臓器提供は、殆どありませんでした。また15歳未満での提供が行なえないために、小さな子どもたちを救うことが出来ないことが知られるようになってきました。そこでまず私たち臓器移植推進連絡会(旧臓器移植関連患者8団体)は、子どもに限った法改正への運動として「小さな子どもたちも、移植が受けられるように早急に法律の見直しを望む」国会請願を行い46万人の署名を提出しました。その後2000年を除き三回にわたり、合計200万人の請願署名を提出しました。加えて毎年のように法改正を求める決起大会や銀座でのパレードと街頭活動、市民公開講座やシンポジウムなど様々な取り組みを臓器移植推進連絡会として行いましたが、国会は一向に動こうとはしませんでした。2003年の秋になり、漸く宮崎秀樹参議院議員、中山太郎衆議院議員、河野太郎衆議院議員等が中心となり、自民党内で法改正への動きが起こり、2004年の2月自民党本部で「脳死・生命倫理及び臓器移植調査会」が開かれました。実は、その前に年齢だけを引き下げる案も検討されていることを知り、年齢制限を撤廃し全面改正をするようにと、何度か宮崎参議院議員に陳情しました。当日は、報道関係者と一緒に廊下で耳をそば立てて会議を聞き入り、「本人の意思が不明の場合、家族の同意で提供を可とする案」が了承されたことを知り、これで改正へ大きく動くと、感激しました。しかし、ことはそう簡単には動きませんでした。その後「脳死・生命倫理及び臓器移植調査会」で関係者からのヒアリングなどを行い検討されましたが、7月に宮崎先生が参議院議員を引退され、思ったほど議論は進みませんでした。

本格的なロビー活動開始。 臓器移植患者団体連絡会(2003年4月に臓器移植推進連絡会を改組)では、「脳死を人の死とし、本人意思が不明の際、家族の承諾で臓器提供を認める」改正案に賛成するかを各団体で議論し、2004年8月自民党案を支持することに決定しました。それを受け9月から、各国会議員一人ひとりと面談をし、わが国の移植医療の現状と法改正の必要性を訴えることになりました。そしてその面談の結果を評価し、点数化して記録することにしました。日本移植学会も積極的に国会議員への陳情活動を行うことになり、同年12月から、私たち患者団体も同行し、主に地元でも陳情することになりました。2005年3月に自民党の前述の調査会でほぼA案に近い内容が了承され、その議論を自民党と公明党の有志による「臓器移植検討会」に委ねることになりました。その検討会では、関係者からのヒアリングを行い、議論を積み重ねた結果、4月に「脳死判定には、家族の承諾が必要」との項目が追加され改正案(A案)が作成されました。しかし、それに反対する公明党の斉藤鉄夫議員が「本人の生前の意思表示の年齢を12歳まで下げる」案(B案)を作成し、2案併記となりました。この2案は郵政解散の当日(2005年8月8日)に上程され、解散により廃案となりました。その後、国会内での勉強会を続け、翌年の2006年3月31日になって、ようやく再上程されました。3月31日と言う日程は、その通常国会で成立さすためにギリギリの日程のため、何とかこの通常国会で、それがダメな時でも秋の臨時国会では、成立させるとの意気込みで提出されたと思っておりました。そこでより活発に国会議員向けの勉強会を行ないました。しかしながら通常国会では、全く審議されませんでした。中山太郎先生からは、審議促進のためには、世論の喚起が必要との指摘を受け、8月27日の福岡を皮切りに、大阪、名古屋、札幌、千葉、東京において日本移植学会と協力し、全国市民リレーシンポジウムを開催しました。

初めての参考人質疑。 秋になり、臨時国会が始まりましたが、一向に審議されそうにありませんでした。しかし私たちは、国会議員への勉強会と陳情を続けました。そして漸く12月13日衆議院厚生労働委員会において参考人質疑が行なわれ、賛成側の参考人として日本移植学会理事長の田中紘一先生と私が出席し、意見陳述をしました。翌年2007年の通常国会で審議が進むかと思われましたが、またも全く審議されませんでした。3月に日本移植学会の先生方に同行して当時の自民党国会対策委員長の二階俊博先生に陳情しました。二階先生は、臓器移植法改正の必要性を充分理解くださり、協力を約束くださいました。そして翌日に与党三役の記者会見で臓器移植法を改正する旨の発言をしてくださいました。そして5月には自民党内でA案賛成者の署名集めも始まり、6月18日には、衆議院内で与党の臓器移植法改正審議促進決起集会も開かれました。6月20日には、A案及びB案の趣旨説明が行なわれ、審議促進のために「厚生労働委員会内に臓器移植に関する法律の改正を審議するための小委員会」が設置され、大いに盛り上がりを見せました。臨時国会開会前の9月13日には、小委員会委員長の吉野正芳先生が東京女子医大で腎臓移植を見学されました。私たちも10月7日に銀座においてパレードと決起大会を行ない、世論喚起に努めました。しかし臨時国会においても全く審議されませんでした。その会期末が迫った12月11日小委員会において初めて参考人質疑が行なわれました。今回は、患者団体からトリオ・ジャパン会長の野村祐之氏、日本移植学会から理事長の寺岡慧先生、法律の専門家として上智大学法学研究科教授の町野朔先生がそれぞれ賛成の立場から意見陳述を行ないました。その日になり以前から噂にあった移植禁止法とも言えるC案(金田案)が上程されました。これも審議を遅らせるためのもので結局翌年の5月まで趣旨説明を行ないませんでした。2008年の通常国会でも審議は進みませんでしたが、私たちは変らず国会議員への陳情活動を続けていました。その甲斐あって、この頃には、衆議院議員の約6割、参議院も半数を超える議員が改正に賛成するまでになっていました。私たちは、何とか審議を進めたいと思い、海外渡航心臓移植を希望したが、渡航前になくなった子どものご両親、ドイツでの心臓移植を希望して渡独後死亡した子どものご両親(この子どもさんは、脳死となりドイツで臓器提供されました)、そして国内で心臓移植待機中に死亡した患者さんの奥様にお願いし、国会の不作為を糾弾するために記者会見を開き、訴訟も辞せずと訴えました。自民党では、総務会で早期に臓器移植法の改正を行なうことを決定しました。民主党内でもA案賛成者の動きが活発となり、5月27日に超党派の臓器移植法改正議連が発足しました。

イスタンブール宣言。 5月に国際移植学会が、海外渡航移植を自粛し、臓器の自給自足を促すイスタンブール宣言を出し、漸く前年に設けられた小委員会で2回目と3回目の参考人質疑が行なわれました。6月10日の3回目の参考人質疑には、WHO臓器移植担当理事のルーク・ノエル氏を参考人として招致しました。この時は、もう一歩のところまで行きましたが、翌日に民主党が福田首相への問責決議案を提出し、国会は会期末まで空転してしまいました。9月からの臨時国会では、麻生首相への交代と解散風により、与野党対立の構図の中、全く審議は進みませんでした。その間、11月30日の名古屋を皮切りに、大阪、札幌、仙台、熊本、広島そして最終4月5日東京で日本移植学会主催の市民公開講座が、開催されることになり、私たちも共催として協力しました。12月に入り、日本移植学会と共に河野洋平衆議院議長に協力を要請しました。1月から始まった通常国会では、河野議長が与野党に審議を進めるように要請し、自民党細田博之幹事長は、今通常国会で臓器移植法改正案を成立させると言明されました。民主党も審議へ向け前向きな姿勢に転換しつつありました。

改正への大きな動き。1月のWHO理事会において、昨年のイスタンブール宣言の「臓器売買の禁止」「海外渡航移植の禁止」が採択され、5月の総会で指針となることが決定しました。このことはメディアでも大きく取上げられ、通常国会で何らかの結論を出すよう国会に促す結果となりました。私たちは、障害となっているキーマンの議員へ陳情し、審議促進を促し、平行して未面談議員への陳情を行い、特に遅れていた参議院での票固めを行いました。

しかし関心は高まっていきましたが3月に入ってもなかなか審議が進みませんでした。そこで再度3月14日に衆参両議院議長に臓器移植法改正案の早期審議とA案の採決を要望しました。そんな時、海外渡航心臓移植ため渡米し待機中に死亡した子どものご両親やその周辺の人達が法改正の国会請願署名を行い、それが全国に波及し3週間で約3万8千人の署名が集まり、4月9日河野太郎議員に提出しました。そして中山太郎先生の助言で、4月14日に臓器移植患者団体連絡会主催で決起集会を国会に隣接する憲政記念会館で開催しました。憲政記念会館は、498人の定員で、いままでのどの決起大会の会場より広い。平日の午前中と言う悪条件の中、果たして人が集まるだろうか全く自信はありませんでした。当協議会としても初めて往復葉書で会員に参加をお願いしました。当日は昼頃から雨の予報、準備を整え、待つと、どんどん人が来る人が来ます。結局500人を上回る参加者があり、人が会場の外にまで、あふれてしまいました。そして出席した国会議員は、中山太郎議員を初め30名を上回り、代理の秘書を加えると70名近くに達しました。これは、国会議員に対し大きな圧力となりました。そして漸く国会は、審議へと動き出しました。臓器移植患者団体連絡会のメンバーも当初6名以上いたのが、少しずつ減り、昨年から国会への陳情活動は、たった3名になってしまいました。しかしながら、その陳情への力は、衰えることはありませんでした。この5年間に衆参両議員へ配布したチラシの総数は、恐らく10万枚を下らないでしょう。面談した国会議員の数は、500人を上回って、延べでは1000回を超えています。それでも日本移植学会と私たちは、手をゆるめることなく、3月からは、ほぼ毎日誰かが議員会館に詰めて陳情活動を行いました。私も少なくとも週に2日は、上京し議員会館を廻りました。そして5月8日には、心臓移植待機患者(人工心臓装着者)と心臓移植待機患者家族が記者会見し、A案の早期成立を要望しました。加えて5月17日に銀座日航ホテルで、5月24日に三井アーバンホテル千葉において日本移植学会市民公開講座を開催し、世論喚起に努めました。5月15日に厚生労働委員会小委員会の審議が終了しましたが、5月22日の厚生労働委員会で小委員会の中間報告の際に、D案が提出され趣旨説明が行われました。私たちは、6月 3日に厚生労働記者クラブにおいて記者会見をし、A案潰しと審議引き延ばしとD案を批難しました。6月9日には、患者団体として前代未聞の全面の意見広告を日本移植学会と協力し東京新聞に掲載し、その新聞を全国会議員に配布しました。当日、衆議院本会議で厚生労働委員会の中間報告と、A,B,C,D案のそれぞれの説明が行なわれました。16日に衆議院本会議での質疑応答があり、18日に採決が行なわれました。私たちは、いままでの面談の結果から票読みをし、280票程度の賛成を得られると予想していました。当日の午前中、中山太郎先生が心配して私たちの部屋まで来られ、大丈夫かとおっしゃいましたが、必ず勝てますと自信を持って申し上げました。

衆議院で可決。投票が始まりましたが、初めは野党からと言うことで青票(反対)のほうが多く、白票(賛成)がなかなか延びませんでした。勝てると確信していましたが、やはり胸の鼓動が速くなりました。半数の投票が終わった頃から白票が上回り、賛成263票、反対167票で大きく引き離して採択され参議院に廻されました。ただ我々の予想からすると棄権した議員が予想よりかなり多かったようです。参議院では、会期が延長されたとは言え、いつ解散になってもおかしくない状態で、時間とも戦わなければなりませんでした。加えて一番出して欲しくなかったAダッシュ案が提出され、妥協する、しないで賛成派の医系議員の足並みも乱れるなど、票固めにとても苦労しました。私たちは、「脳死を人の死とする」案でなければ、改正する意味がないと、あくまでA案を無修整で成立させることに固守しました。参議院でも毎日参議院議員会館に詰め、陳情活動を続けました。しかし最後まで、はっきりとA案で勝てる確信は、ありませんでした。7月になり、最後の票固めと、解散時期の時間との戦いでした。結局解散2日前の7月13日に採決されることなり、何とか滑り込みセーフと言うところでした。

5年前から、ほぼ毎週上京し議員会館に陳情に行き、今年の3月からは、週の半分近くは、東京で活動しました。先にも書きましたように延べ1000人を超える国会議員に直接面談し、臓器移植の必要性と改正を訴え続けました。アメリカでは、党議拘束があまりなく、ロビーストが職業として成り立っていますが、殆どの法律が政党間の話し合いで決定するわが国おいて、5年に及ぶ議員一人ひとりへのロビー活動は、前代未聞のことであり、恐らくわが国の憲政史上に残ることでしょう。この法改正は、長年にわたる移植医療に関わる多くの人たち努力と協力によって達成された偉業であったと思います。地元で、東京の国会議員会館で陳情活動にご協力戴いた方々、各地区での市民公開講座、決起大会にお手伝いいただいた方々、そしてご参加いただいた方々、日本移植学会の先生方を初め、多くのご協力をいただいた方々、本当にありがとうございました。心から感謝致します。


お問い合せ先:NPO日本移植者協議会
〒530-0054 大阪市北区南森町2-3-20 プロフォートビル507号
TEL:06-6360-1180・FAX:06-6360-1126
E-mail:nichii@guitar.ocn.ne.jp

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